ご挨拶
はじめまして。執筆者のリエです (*Ü*)ノ
当サイトへのご訪問ありがとうございます。
とても嬉しいです٩(*´∀`*)۶
私は文章を思いのままに書くことが好きです。
InstagramやFacebookは映え写真がメインにも関わらず
私は"長文"を書いていました。
写真を撮るのは好きですが
私は言葉で想いを紡ぐ方が好きなんだと気づきました。
SNSのお陰で表現する場が増えた良い反面
東京暮らしの頃はお仕事柄、名前と顔を出してSNSを使っていたので
書きたいことを書けない窮屈さも感じるようになり
次第に名前と顔を出すことに抵抗を感じるようになりました。
なぜなら
有名になりたくない!!
という気持ちが強くあったからです。
※有名になることに擦りもしませんでしたけれどね(笑)
学生の頃の私は
「テレビに出るぐらい有名になりたいな〜♪」
「教科書に載るぐらい有名になりたいな〜♪」
と思っていた時もあったのですが
いつの日か有名になりたいという名声欲はなくなりました。
生まれてきた「使命」は各々違いますから
有名になって啓蒙活動をされる方ももちろんいらっしゃいます。
私はそういった「使命」を持ち合わせていないようですが
誰かの役に立ちたい!!という気持ちは強くあります。
このブログでは、
伸び伸びと、軽やかに、素直に、思うままに
「リエ」の考えや日常をお届けします。
それが誰かの役に立つかは今はわかりませんが
いつの日かそんな日がくることを願っています。
ユーモアが足りない時はこっそり教えてくださいね |ω・`)
コメント・感想もお待ちしています。
どうぞ末長くよろしくお願いします (*ˊᵕˋ*)ノ
家族
両親(健在)、3つ上の姉、2つ下の弟がいます。
母は仕事を辞めることなく働き続け(なんと新卒から再雇用まで同じ会社にいた!!)
授業参観には出張と重ならない限り絶対来てくれて
土日は遊びにも連れて行ってくれました。
ばあちゃんが身近にいる暮らしだったので学童には行かず
小学校時代は毎日習い事に通っていました。
そろばん、習字、水泳、エレクトーン、4年生からは受験塾
これだけの習い事をさせてもらえて有り難かったと大人になって思いました。
「仕事と家庭は両立できる」ということを母から学びました。
祖父母は4人とも広島出身。
1人の祖父は戦争で中国へ行き、もう1人の祖父は原爆が落ちた翌日に現地に行って片付けをしたそうです。
戦争の話を2人の祖父から聞くことで、リアルな実態を知ることができました。
祖母も遠くで光ったのを見たそうです。
母の弟は少しハンディを持っていました。
50代の頃に就職先が決まらなくなり、就職の難しさというのを身近で見ました。
祖母と母から「献身的に生きるとはこういうことだよ」と教えてもらいました。
父は辛抱強さと男性のやさしさを教えてくれたと思います。
実家にいた時、ソファで寝てしまった父が夜中にソファから落ちたことがありました。
なにごとかと思って部屋から出て見に行き、私は半ば呆れながら「大丈夫?」と声をかけると
寝ぼけながら父は「ありがとうね」と言いました。
その時にハッとしました。
父方の祖母の顔が浮かび、あのやさしいおばあちゃんから育った父の根底の優しさに触れ
母が父を選んだ理由が分かったような気がしました。
幼少期
この頃から足は速かった。
そして負けず嫌い。
口癖は「だってリエわかんないんだもん」
とにかく自己主張をする子だったと両親は言っていました。
服も自分で決めるし、お腹いっぱいになったら口を開けない。
玄関が少し開いていると外に出て行ってしまう。
自己主張ができる環境だったことで、私は伸び伸びと育ったのではないかと分析しています。
両親は私の育て方が上手だったと思います。
私から自己主張を奪っていたら
チャレンジできない子、もしくはグレていたかもしれません。
絶対的な安心感のある環境で、両親は私を否定せず信じてくれて
感情的にならない両親の元で育ったことは、私の人格形成のおいてとても大きかったと思います。
学生時代
大人の考えていることがなんとなくわかっていたように思います。
小・中学校の先生たちが生徒の情報共有していたこともわかっていたし
そのことを逆手に取って「あ、やっぱりな」と思うこともありました。
今思えば情報共有をするのは当たり前なんですけれど
当時は1人の先生になにかを言ったら筒抜けになるからあまり信用ならないと思っていました。
中2までは勉強ができて成績もよかったです。
暗記しないとできない勉強に変わった頃から、勉強がつまらなくなりました。
1番楽しかったのは中学受験の算数。
つるかめ算、旅人算などはクイズみたいで楽しかったですね。
高校受験は公立高校を推薦で行きたかったのですが
内申点が45か44(1科目だけ4であとは全て5じゃないとNG)な高校で
43(美術と技術が4)を取ってしまい、推薦不合格。
一般受験もほぼ満点じゃないと受からない中、得意な数学を落としてしまい不合格。
渋々抑えの高校へ。(とてもいい高校でした)
本来勉強は楽しいはずなのに、高校の頃は本当につまらなかったですね。
勉強をせず、学校もサボりがちになり、生きる希望を失いかけました。
「あれ?私はなにしに地球に来たんだっけ?」という疑問は小学生の頃からありました。
その答えを見つけられないまま、人に聞いてもわからないんだろうなという感覚があったので
誰にも相談しませんでした。
1年浪人して大学へ行くのですが、試験という試験にとことん縁がない私は
またしても抑えの学校へ行くことに。
社会人になってからも、とにかく「試験」というものが受からない。
勉強は嫌いじゃないのに、なぜか受からない。
唯一受かったのは運転免許の試験ぐらいじゃないでしょうか。
今となっては「試験」が必要なことには手を出さなくなりました。
私に「試験」は必要ないようです。
同級生の中では割と目立つ方だったと思います。
学級委員をやりたいとは思わなく、渋々引き受けることもありました。
中学・高校は陸上部に所属、種目は短距離。
中学の県大会では思うようにタイムが出なかった時、悔しくて一人でこっそり泣いてからみんなのところへ戻っていました。
陸上は個人プレーなので自分の練習に嘘がないし、自分との勝負。
練習をサボればタイムに出てしまうし、県大会にも進めない。
両足攣ったりしたのもいい思い出です。
高校生の頃はダンスをしたかったのですが私がやりたいhiphooダンスがありませんでした。
大学でダンスをすると決めていたのに
私の大学にはダンスサークルがなく、他大学のダンスサークルに入りました。
そのお陰で大学の友達とサークルの友達、両方できました。
大学は建築学科に進み、模型を作ったり図面を描いたり徹夜することもありました。
卒論では小学生を対象にした「原風景」について調べるため
小学5年生の2クラスに授業の時間をもらってワークを行いました。
振り返ってみるとこの頃から子どもに関わることをしていたんですね。
友達となにか揉め事が起きた時に母に相談をすると決まって
「リエが悪い」と言われてきました。
私が納得できなくても
「リエがいなかったら起こっていないんだから、自分の悪いところを考えなさい」
という教育方針でした。
この教育はとてもよかった。
今でもなにか起きた時に「私のなにがいけなかったのか?」と考えられるので
人のせいにすることがありません。
愚痴を言うこともほとんどないし、愚痴を聞くのもとても苦手。
自分にほとんど非がないであろう環境でも自分の悪かったところを探す。
周りのせいにせず不平不満を言う習慣がないことは、生きやすさにつながっていると思います。
社会人
新卒では社員数15,000人の一部上場企業に入社しました。
行きたい高校・大学に行けず、子供の頃勉強ができた私のプライドは傷ついていました。
20歳の時、社会人で挽回するぞ!!と意気込み、「20代で社長になりたい」と思いました。
母と洗濯物を畳んでいるときに「私、社長になりたい」と言うと
「いいんじゃない?私がならなかったからリエやりなさいよ」と言われ
その日を境に、私は20代で社長になることを決めました。
就職活動が始まる頃、私はなにをして社長になるのかまだ決まっていませんでした。
周りの大人たちから「まずは3年間社会人を経験した方がいい、それからでも遅くないから」と言われ
どこの会社でもいいから3年間会社員になることにしました。
CADで図面を描くのが好きだったので、CADを使う仕事に就職したのですが
入社して3日後、私の部署は全員「コールセンター配属」に変更となりました(笑)
行きたい学校に行けないだけではなく、やりたい仕事にも就けない。
人生は面白いですね。
結果として、コールセンター配属はとてもよかったです。
CADでの仕事はどちらかというと職人技。
コールセンターはコミュニケーションがメイン。
ここで同期や多くのオペレーターさんと関わり、仕事内容も多岐に渡って経験できたので
有意義な時間となりました。
電話を取ったのは最初の3ヶ月のみ。
クライアント対応、研修講師、契約社員さんの採用面接、
オペレーターさん60人のシフト作り、
ドラッガーの本を読んでその通りに実践etc.
年上の女性が多い職場で可愛がってもらいながら成長できたと思います。
3年1ヶ月勤め、予定通り退職。
その後はハーブティー関係の仕事で独立しようと思っていました。
退職後にハーブティー講座のサポート講師に入った時
「ハーブの知識やブレンドが上手な方はたくさんいるのに、就職先がほとんどない」現状を見て
ハーブティーを扱う人たちの活躍の場を作りたいと思いました。
その準備のために貯金をしよう!
貯金するならサラリーマンが確実だ!!と思い
再度会社員になり、貯金をすることにしました。
貯金が目的だったので、転職エージェント会社にも仕事選びの第一条件は「給料」だと毎回答えていました。
転職先は社員15人の不動産会社でした。
入社式でしか社長を見たことのない会社から、毎朝の掃除を社長も一緒にする会社への転職。
カルチャーショックでした。
自分の意見がすぐ反映できる環境、これは楽しかった。
新卒採用も担当し、前職の派遣社員さんの面接と新卒の面接を併せると1000人は面接をしてきたと思います。
不動産会社の仕事も楽しく、モデルルームを作ったりシェアハウスを作る過程を見てきました。
内装に興味があって建築学科に進んだので、実際に現場を見れる環境は楽しかったですね。
仕事にやりがいも感じていたので、起業が延びてもいいかなと思う時もありました。
28歳の頃、タイムリミットの20代が近づいてきてもまだなにで起業するかが決まらない。
1〜3月の繁忙期を終える頃、GWは電話が通じないところで
仕事から離れてヨガ三昧の旅に出ようと決め、バリ島に行くことにしました。
社会人になってから趣味で始めたYoga。
Yogaをしていると頭の中で渦巻く思考から徐々に解放され
Yogaが終わる頃には頭の中がスッキリしているのがとても心地良くて続けていました。
バリ島に行くと、講師は男性ばかり。
受けている人もカップルだったり、男性も多くいました。
当時の日本はYogaというと「美容」のイメージが強く、先生は女性ばかり。
男性がYogaをすることはほとんどありません。
今後は日本でも男性がYogaをするようになるな〜
Yogaに対するハードルが下がったらいいな〜
そんな風に思いました。
日本に戻り、職場の男性の後輩たちが「ジムに行く」という話をしているのを聞き
「ジムもいいけれどYogaをすればいいのにな〜」この時もそう思いました。
そのまま時が過ぎ、年末の12月に上司に呼ばれて話をしているときにふと
もう会社を辞めよう
と思い、その場で上司に辞めることを伝えました。
この頃は起業するならYogaだとほぼ決めていました。
3月:退職
4月:ハワイでヨガの資格取得
5月:Yogaスタジオをオープン
無事29歳10ヶ月で起業しました。
起業(個人事業主)
20歳から9年間、私は社長になることを目指して生きていました。
マウイ島でYogaの資格講座を受け、帰国してすぐスタジオをオープンすることも決まっています。
これで私も起業できるんだ!!
起業が確実になっても、驚くことに私は全く満たされませんでした。
あれ?私は起業してなにをしたかったんだ?
その先になにもない!!
起業することが目的になっていた!!
それってただの私の欲じゃん!!
私は9年間も一体なにを追い求めていたんだろう...
愕然としました。
中身のないことを追いかけていた自分の愚かさに情けなくなりました。
マウイで資格講座を受けながら、空いている時間に考えました。
これからの人生、私は誰かの役に立つことをしたい!!
心からそう思いました。
起業どうこうはすでにどうでもいい話になっていました。
人の役に立つことをなにもしていなかったことが深く心に残り
その後ヘアドネーションをすることを決めました。
お金の寄付は一瞬でできる。
ヘアドネーションは何年もかけて取り組む必要がある。
私は髪質にこだわりはあっても、髪型にこだわりはない。
それだったら子どもたちのウィッグ用に髪を渡そう。
ウィッグを使い、恋愛を楽しんでもらいたいと思いました。
現在は3度目のヘアドネーションに向けて髪を伸ばし中。
私の30代はヘアドネーションと共に過ごしています。
起業(法人設立)
個人事業主でYoga始めて3年後、法人を設立しました。
社員さんはいない、1人会社。
名刺には「代表取締役」と書かれています。
私という個人は変わらないけれど、役職に変化が起きました。
この時、役職はただの役割であり重要ではないことを実感しました。
営業経験を活かし、企業様とイベント企画をすることも増えていきました。
Yogaをしに来る人たちになにを提供したら喜んでもらえるのか
そのことにとにかく向き合った5年間でした。
新型コロナウイルスの影響で
2020年4月:Yogaスタジオ休業
2020年7月:スタジオ閉店
会社員(一部上場企業)→ 会社員(ベンチャー企業)→ 個人事業主 → 会社経営
詰め込みではありますが、10年の月日で社会人を一通り経験できたと思います。
番外編 ー 旅 ー
「私の人生×旅」についても書きたかったのですが
ボリュームが増えてしまうので割愛しています。
また別記事で旅の思い出についても書こうと思いますが
一旦私の思う旅と旅行についてまとめたものをご紹介します。